聖徳太子
聖徳太子
日羅上人は、敏達天皇が百済より日本に招かれ国政を行い、聖徳太子が師事した、百済の高僧であると言われています。
奈良・明日香村の橘寺は用明天皇の離宮のあった処で、ここで誕生した聖徳太子が創建した寺と伝えられています。
橘寺には重要文化財の平安時代の日羅地蔵と呼ばれる木造があり、地蔵菩薩像の歴史の中でも最初期のヒノキ材の一木造りのようです。
朝鮮半島に対して不利な意見を述べた日羅上人は、百済人に命を狙われますが、その身体を炎の様な光が覆っていた為に、なかなか実行できず、光が消えた瞬間を狙って殺害されたと言われています。
「聖徳太子伝歴」という本には、日羅上人は異相であったとあり、聖徳太子が師事したとあることから、橘寺は聖徳太子ゆかりの寺でもあり、普通ではない僧形像ということで、この木造が日羅上人の像ということになったようです。
現在大覚寺には、火災で大破した尼崎最古の弘仁時代(810~824)の一木造りの地蔵形の仏像を日羅地蔵尊と伝えてお祀りしています。
永禄十二年(1569)二月二十八日、織田信長は三千人の将兵を引き連れて大覚寺別所に陣取らせ、大覚寺市庭の町衆に矢銭(軍用金)を強要しましたが、町衆が拒否したことから争乱となり住人三十余人が殺され、寺域一帯は焼き討ちに会い、大覚寺も伽藍のほとんどを焼亡しました。唯一死守したのは、県の文化財指定を受ける「大覚寺文書(中世文書56点を含む)」と伝.開基・日羅地蔵尊であると伝えています。
天狗がしばしば山伏の姿に見立てられるのは、修験者の驚異的な能力を畏敬したことからくるようです。修験者の祖とされる役小角(えんのおづぬ=役行者・えんのぎょうじゃ)も、天狗に喩えられます。
鳥のようなくちばしを持つ烏天狗は、河童と同根、あるいは同一のものとする説もあるようですが、いずれにせよ、天狗と山岳信仰は切っても切り離せません。
室町時代以降、全国の霊山や有力な山伏集団のいる山では、山に対する信仰心を強めるため、独自の天狗を誕生さ「日本八大天狗」と言うものがあります。
1. 愛宕山(あたごさん)太郎坊(京都)
2. 比良山(ひらさん)次郎坊(滋賀)
3. 飯縄山飯綱(いづなの)三郎(長野)
4. 大峰前鬼(ぜんき)(奈良)
5. 鞍馬山僧正(そうじょう)坊(京都)
6. 白峰相模(さがみ)坊(香川)
7. 相模大山伯耆(ほうき)坊(神奈川)
8. 英彦(ひこ)山豊前(ぶぜん)坊(大分)
愛宕山太郎坊はこれら大天狗の総元締的な存在で、日羅上人に屈服した天狗は日羅上人を守護するようになったと言われています。
愛宕山の縁起によりますと、敏達天皇が10歳の聖徳太子の教育係として百済より日羅上人を呼び寄せます。ところが、天皇の内政や、三韓情勢に関する献策や、無断渡航に怒った百済王の追討軍との間で、難波における戦闘となります。
日羅上人は百済軍に勝利しますが撃退した自責の念から、淀川を遡上し愛宕山に隠棲することを決めます。最初愛宕山の天狗は妨害しますが、ついに日羅上人に屈服して上人を守護するようになります。
その後、聖徳太子は死に瀕した日羅上人を愛宕山に見舞い、日羅上人は太子に仏教興隆を勧め、自らは愛宕山の大権現となり衆生を守ると告げて没します。
百済軍は日羅上人の遺骸を奪いに来ますが、愛宕山の天狗が百済軍を撃退し遺骸を守ります。聖徳太子はここに「社」を建立し、その勝因に因んで「勝軍地蔵権現」と称されたとあります。
「愛宕権現」は「勝軍地蔵」が垂迹した軍神と言われています。
愛宕山はかつて山全体を白雲寺と称する修験道の道場でした。明治時代に行われた神仏分離令により愛宕神社と改称されました。
白雲寺は「勝軍地蔵(将軍地蔵)」を本尊とした為、戦国時代にかけて多くの武士から信仰を集めました。
愛宕山には「勝軍地蔵(愛宕権現」)を祀る本宮(本社)と、「愛宕山太郎坊天狗」を祀る奥院、などの6宿坊が建立されていたようです。
またこれとは別に、京都清水寺のご本尊・千手観音の脇侍に、清水寺開山延鎮上人と征夷大将軍・坂上田村麻呂の陸奥国遠征に関わる、「勝軍地蔵」が祀られていることも有名です。
東大寺戒壇院 円照上人の弟子琳海上人、
大覚寺統・後宇多(ごうだ)天皇の御代、建治元年(1275)尼崎大覚寺を創建し、大覚寺長老となる、後に洛中・東北院を復興。
洛中・東北院は京都御所の東北に位置し、世阿弥の能楽「東北(とうぼく)」の舞台。
参考
__ 『円照上人行状記』 戒壇院凝然(ぎょうねん)著。
__ 『本朝高僧伝』 卍元師蛮(まんげんしばん)著
__ 『招提千歳伝記』 明律篇。唐招提寺蔵。
後深草天皇崩御
嘉元二年(1304)
7月1日東北院琳海上人千手観音陀羅尼を以て加持す。
廣義門院御産:(後伏見天皇の中宮)
延慶4年(1311)2月1日東北院琳海上人七仏薬師法修中毎旬放生あり。
放生に用いる魚介を尼崎及び天王寺今宮浦にて買う。
北朝第一代光厳天皇:
後伏見天皇(伏見天皇の第一皇子)の第一皇子。名を量仁(かずひと)親王。
母は前左大臣西園寺公衡(きんひら)の娘。寧子(ねいし)広義門院、
正和2年(1313)一条邸に生誕。
中学、高校で習う「平家物語」は、覚一検校が完成させた「覚一本・平家物語」です。足利幕府と関係を深めながら、覚一検校は当道座(とうどうざ:琵琶法師の職能団体)の組織を整備した琵琶法師の巨匠です。大覚寺には「覚一本平語相伝次第」(室町時代書写、県重文)と呼ばれる平家物語の伝来に関わる文書が残っており、大覚寺弁才天は中世都市尼崎の母体であった大覚寺市庭の鎮守神であり、彼ら琵琶法師の守護神でもありました。
増栄坊、理観上人:
寛永12年(1635)~元禄6年(1693)1月25日没
年12才で麻耶山にて出家得度、15才高野山大楽院信龍の室に入り、南院良意に随って安流の極意伝え、伊勢に赴き亮典の門を叩いて神道の奥旨を究め、再び高野山に還って悉曇声明を学ばれました。
理観上人生誕の年寛永12年は、尼崎藩に青山幸成(よしなり)候国替えの年にあたります。(尼崎藩では「幸」の字を代々「よし」と読ませます。)
当時尼崎藩領下であった。摂津国菟原郡畑原村–神戸市灘区畑原–(王子公園北、麻耶ケーブル駅辺)安田氏に生まれる。没年は記録によると尼崎城内にて牢死とあり、入牢の原因はキリシタン・バテレンの邪法を使うとの嫌疑により、将軍家綱の命によって監置されたと伝えられています。
当時は寛永14年(1637)の島原の乱や慶安4年(1651)の由井正雪(ゆい しょうせつ)の事件:三代将軍家光のころ関ヶ原、大阪の役以来、大名の取りつぶしなどで浪人があふれました、48歳で死去した家光の後を11歳の家綱が継ぐことになり、それに乗じて幕府転覆を謀った事件。などもあり、人心を収攬し社会的に声望ある者を極度に警戒した時代でした。
寛文4年理観上人31歳の時、江戸に於いて市中で病気に苦しんでいる人に、井戸水を五鈷加持して飲ませ病気を癒し(寛文6年7月18日銘の有る大覚寺の玉水之井にも同じ伝承が伝わっています。)、また乳が出ず難儀する母親と乳の余っている母親を並ばせ乳を移して乳が出るようにした事などが評判になり、高風を慕って崇敬する人が少なくなかったようです。
寺社奉行井上河内守利正(としまさ)候はご自分の目で確かめるべく、理観上人を詮議することになりましたが、理観上人は器に盛られた水を、手も触れずたちどころに半分に減らし、またしばらくして本に戻し「水輪無碍の徳」を見せられましたので、寺社奉行は「愚眼真人を知らず、過って聖者を苦しむ。幸いに慈赦を垂れたまえ。」と信者の契りを結んで理観上人を崇信されました。
ある日修法を終えて定から出た理観上人は江戸にいながらにして、「今大阪城が火災に見舞われている。」と河内守に告げ、果たしてその通りでありました。その様なことが将軍家綱の耳に入り、霊力無双を敬遠され、生まれ故郷の尼崎藩青山幸成(よしなり)候に監護されることになったようです。
その頃、大覚寺は尼崎藩御祈祷所でありましたので、建前上、囚人である理観上人は、住職の身分ではなく弟子の身分であったと伝えられています。盲目の母親と一緒に大覚寺に住まいし、機を織る母親の世話をし、掃除や食事も人の手を借りず孝養を尽くされたと伝わります。理観上人の死後、縁者が懇願して故郷畑原村に葬り、高野山奥の院一の橋の青山家の墓所の近くにも墓碑があると伝えます。
理観上人は清水の湧き口を見つけ出すのが上手で、ここを掘れと言ったところを掘ると必ず良水が得られたと云い、今も尼崎や灘にその井戸が残り、大覚寺の玉水之井(寛文6年7月18日銘)もそのひとつです。
大覚寺の山号額には理観上人直筆の阿字観本尊があがり、その右手に理観上人ゆかりの「玉水之井」が残ります。
他にも、密教の瞑想法である「阿字観」の板本尊や、直筆の供養法(六器や鈴などの密教法具を用いた行法)付きの阿字観次第や、月輪観次第などが残ります。
大覚寺は江戸時代、尼崎藩御祈祷所として藩から録が与えられましたので、登城用の駕籠が今も残っています。
参考
__1.木村時員(きむら ときかず)三暁庵随筆、上巻
__2.太田南畝(おおた なんぼ)補三十幅(ほみそのや)
__3.「紀伊続風土記」
碑表には古学の祖、契沖阿闍梨(けいちゅうあじゃり)(古典研究の道を開いた契沖。阿闍梨は密教の修行を完了し法を伝える資格をえた僧の位)「氷」の題で詠んだ歌“しなが鳥けさや氷もゐな河の山彦とよむ音も聞こえず”(冷込む今朝は、あの猪名川にも氷が張って、いつもなら、山に反響してごうごうと流れる河音も聞こえないことだよ。)しなが鳥は猪名川の枕詞。猪名川の「ゐ」と「居る」を掛けて詠んでいます。契陣の歌集『漫吟集類題(まんぎんしゅうるいだい)』の中から、尼崎の地名を詠んだ歌を選びました。なお、この碑を当寺“移建の由来は碑裏に記しています。 契沖研究会
契沖は、寛永十七年(1640)尼崎藩の武家屋敷に生まれ、元禄十四年(1701)大阪の円珠庵(えんじゅあん)で、六ニ歳の生涯を閉じます。契沖は真言の秀れた修行僧でしたが、その高名は、水戸光圀(みとみつくに)から依頼された『万葉集』の注釈書『万葉代匠記(まんようだいしょうき)』などにおいて、従来にない論理的実証怯を確立した事。また、美しい伝統的日本語を守るために『和字正濫鈔(わじしょうらんしょう)』などで正しい日本語を体系化して、「歴史的かな遣い」の基いを作った事によると言われています。
参考
_契沖研究会
南北朝時代・延文三年(1358)尊氏公死去に伴い、嫡男・足利義詮公が征夷大将軍に任じられ、足利二代将軍となられます。そしてその示威もあり、南朝の楠木氏討伐のため総勢七万余騎の大軍を率いて尼崎に下向され、半年間大覚寺を本陣御座所とされました。この頃より大覚寺は城郭としての性格が強くなり、大覚寺城と呼ばれました。
また寺域は港湾都市としての発展が進み、「大物(だいもつ)」の地名ともなります、「大物(おおもの)」と呼ばれた寺社建設用の巨大な材木の集積地として有名になり、石清水八幡宮の造営などにも参加した「尼崎番匠(ばんしょう)」と呼ばれた大工集団もあったようです。
また淀川水系を使った物流の拠点としての面影が残る京都伏見には、今も尼ヶ崎町等の地名が残り、淀川河口の水運の拠点のひとつ尼崎との関係を想起させます。
応永13年(1406)北山殿・足利義満公が、着岸した「唐船」を見ようと来られた記録なども残り大覚寺市庭の繁栄が伺えます。
南朝の楠木氏も尼崎に兵を進めたときには、大覚寺に禁制を与えて保護しています。こうしたことは、大覚寺が南朝・北朝の両朝から重視される程の実力を備えていた事が分かります。
大覚寺文書の中に、楠木正儀公(まさのり:南朝の有力武将・楠木正成の三男。楠木正行、正時の弟。)の禁制の書状を伝えています。
燈炉堂(大覚寺)・剣尾山・愛宕山・京都、を山伏の焚く柴燈大護摩の(のろし:狼煙、烽火)で繋ぐ通信網を築きあげたのは、細川京兆家・細川政元公ではなかったかとの指摘が有ります。
細川政元公は畿内の摂津・丹波の守護であり、四国の讃岐・土佐の守護でもあったため、四国・瀬戸内で異変が起こった時、あるいは京都で変事が有った時、急を知らせる為の高速情報通信網が存在したと言われています。
政元公は「常はまほう(魔法)をおこなひて、近国他国をうごかし、又或時は津々裏々の御舟遊びばかり也。」(「細川両家記」)と言われるように、山伏信仰・修験道を良くされ、女性を近づけず生涯独身を通されたため実子がなく、澄之(すみゆき)公・澄元(すみもと)公・高国(たかくに)公を養子にされました。
しかし、家臣たちがそれぞれの派閥にわかれて勢力を競うようになり、しばしば尼崎が戦いの舞台となりました。
軍勢が尼崎に上陸すると、一両日中に京都に到達することが出来たため、京都を支配する勢力にとっては、ここが最前線となり、ここでの戦いが政権を左右したと言われています。
大覚寺には、細川清氏公(細川宗家・足利義詮執事)の数通の書状(金光明最勝王経の読誦祈願依頼)や細川満元公(細川京兆家・室町幕府管領 摂津・丹波・讃岐・土佐の守護)の書状(鷺島庄(大阪市福島区)下司職について仰せ下し状)や細川頼元公(室町幕府侍所頭人 管領 摂津・丹波・土佐・讃岐・安芸の守護。正室は赤松則祐の娘。子に満元、満国。初名は頼基。頼元以後、細川京兆家は三管領の一つとして室町幕府の管領を務める家柄となる。)の書状などを伝えています。
鎌倉時代後期、鎌倉幕府は北条得宗家による執政体制にあり、元寇(げんこう:元のフビライの軍が日本襲来。)以来の政局不安などにより、幕府は次第に武士層からの支持を失っていきました。吉良満義公は元弘の乱(げんこうのらん:元弘元年(1331)に起きた、後醍醐天皇を中心とした勢力による鎌倉幕府討幕運動。)で倒幕の兵を挙げた足利尊氏公に従い、京都の六波羅探題攻撃に参加しています。倒幕後に建武の新政が開始されると、足利直義公(尊氏の弟)に従い関東に下向し、建武3年/延元元年(1336年)の南北朝の分裂までの間、尊氏公・直義公に従い各地を転戦しています。康永3年/興国5年(1344年)幕府引付方(ひきつけかた:幕府の裁判機関)の一番頭人に就任し、直義公の政務を補助しました。
観応の擾乱(かんのうのじょうらん:室町幕府・足利政権の内紛。)では、終始直義側に立ち、尊氏公から「吉良荘の凶徒」と呼ばれましたが、文和元年/正平7年(1352年)直義公が没した後も容易に尊氏公には降らず、数年にわたり南朝に属して抵抗を続けました。その後、嫡男・満貞と袂を分かち北朝に帰順しています。文和4年/正平10年(1355年)に南朝軍が京都を占領した際には、近江に下向していた北朝・後光厳天皇の警備を任されています。
延文元年/正平11年(1356年)9月23日没。法名は寂光院殿。
赤松範資公の死後、後を継いで摂津守護になられた、範資公嫡男の赤松光範(みつのり)公の書状が大覚寺には伝わります。
また、赤松範資公歿後、赤松氏惣領(そうりょう)を継がれたのは、赤松円心公の三男・赤松則祐(そくゆう/のりすけ)公で、妻は佐々木導誉公の娘です。佐々木導誉公は摂津守護の赤松光範公の後を継いで摂津守護となられ、その後、娘婿の赤松則祐公に摂津守護を譲られています。
また、赤松則祐公は室町幕府の禅律方頭人にも成っておられます。
(禅律方:ぜんりつがた)建武三年(1336)足利尊氏公の元に禅宗及び律宗などを統括した禅律方が設置され、のちに室町幕府の正式な役職機関となり、僧侶の登録・住持の任免などの人事を統括し、後には僧録司(そうろくし)とよばれました。)。
延文五年(1360)、征夷大将軍就任に伴う示威の為もあったと言われる、足利義詮公の半年間に渡る大覚寺在陣にからんで、日本三芸道の一つ、香道の大成者である、佐々木導誉公が赤松光範公にかわって、摂津守護識の任命を受けられています。
現在、大覚寺では佐々木導誉公を流祖とする、皇室香華院・京都泉涌寺長老が家元をなさる、香道泉山御流の教場となっております。
毎月「お香の会」が開かれ、導誉公のご命日には流祖の追善と泉山御流一門の隆盛を祈念して献香式が行われます。
三好氏は阿波国の有力武士で代々細川氏に仕えてきました。細川澄元公の子、細川晴元公の家臣・三好長慶公が台頭し、摂津国衆を味方につけて、第12代将軍足利義晴公や細川晴元公を京都から追放し政権の座につきます。三好氏は阿波からの上陸地として、また兵庫・淡路・堺などに兵力を移動させる拠点として尼崎をしばしば利用し、堺とならんで尼崎を大阪湾支配の拠点としたようです。大覚寺には三好 義賢(みよし よしかた:三好長慶の弟。別名、実休(じっきゅう)。)の禁制が残されています。
篠原 長房公は阿波の戦国大名三好氏の家臣で阿波国麻植郡上桜城主(徳島県川島町)です。橘氏を称し、長房公の祖父・宗半公の代に近江国野洲郡篠原郷より下って三好氏に仕えたと言われています。三好氏の分国法(ぶんこくほう:戦国大名が領国支配のために制定した法令。)である新加制式(しんかせいしき:戦国時代、四国・畿内に大領国を築いた三好氏の家法。)の編纂にあたる一方で、阿波・讃岐両国の軍勢を率いてしばしば畿内へ出兵しています。
永禄9年(1566年)6月には第14代足利義栄公を擁立し三好長治公・細川真之公(細川持隆の子、長治の異父兄)を奉じて四国勢を動員して畿内へ進出するなど、三好一門の有力者三好三人衆(みよしさんにんしゅう:三好長慶の部下であった三好長逸・岩成友通・三好政康の三人をいう。)と協調路線をとり、松永久秀公と敵対し、松永方の瓦林三河守より摂津越水城を奪い、ここを拠点として大和ほか各地に転戦し、東大寺大仏殿の戦いでは、永禄10年(1567年)4月18日から10月11日のおよそ半年間にわたり松永久秀公、三好義継公に対して三好三人衆、筒井順慶公、池田勝正公らと大和東大寺周辺で市街戦を繰り広げ、永禄11年10月まで畿内に駐屯しました。
この時期の長房公は、『フロイス日本史』に「この頃、彼ら(三好三人衆)以上に勢力を有し、彼らを管轄せんばかりであったのは篠原殿で、彼は阿波国において絶対的(権力を有する)執政であった」と記されるほどでした。阿波・讃岐両国をよくまとめて三好長慶公の死後退勢に向かう三好氏を支えたと言われています。
室町時代も最後の頃、永録12年(1569)2月28日織田信長は三千人の将兵を大覚寺別所(べっしょ:大仏上人・重源〔ちょうげん〕上人が東大寺大仏殿再建のため各地に設けた事務所を別所と称したことから、東大寺の尼崎木屋所をも別所と呼んだことに由来するという説もある。)に陣取らせ、大覚寺市庭の住人に矢銭(軍用金)を強要しました。
このとき住人が拒否したことから争乱となり、住人三十余人が殺され、市庭一帯は焼き討ちに会い、この時大覚寺も伽藍のほとんどを焼亡しました。
豊臣秀吉公は信長公が本能寺の変で明智光秀公に討たれると、「中国大返し」により京へ取って返し、大物まで来た時、光秀勢に見つかり、味噌擂り坊主に化けて難を逃れたという伝承があります、ついには山崎の戦いで光秀軍を破り、織田家内部の勢力争いでも他の家臣はおろか主家をも制して天下人の地位を得たと言われています。
その豊臣秀吉公が行った土地調査を太閤検地と言います。
大覚寺には検地によって定められた年貢率をめぐる領主と農民に対する朱印状が残ります。
年貢率に対して、当時の農民と領主の間でさまざまな駆け引きがされていたことが書状から伺えます。
Copyright© 2024 尼崎 月峯山大覚寺 三帝勅願所(第八十九代・後深草天皇、第九十一代・後宇多天皇、第九十三代・後伏見天皇). All rights reserved.