芦刈からくり堂縁起
芦刈からくり堂の人形について
平安文学『大和物語』から取材して、世阿弥が創作した能楽『芦刈(あしかり)』は日本三大祭りの一つ京都祇園祭の山車(だし)の中に、室町時代・応仁の乱以前から、この能楽『芦刈』に因んだ「芦刈山(あしかりやま)」が巡行し大変有名です。
この物語の舞台は中世尼崎の母体とも言われる、寺町に移転する以前の、「大覚寺市庭」であり、『平家物語』を完成させ、室町幕府と関係を深めながら、琵琶法師の職能団体である「当道座(とうどうざ)」を組織した琵琶法師の巨匠・覚一(かくいち)検校(けんぎょう)以下の琵琶法師たちの活動の拠点のひとつでもあったようです。他にも、『平家物語』から題材を取った、兄の頼(より)朝(とも)に追われた義経(よしつね)・弁慶(べんけい)一行が静(しずか)御前(ごぜん)と別れる能楽『船弁慶(ふなべんけい)』の舞台でもあります。
なお、大覚寺には室町幕府・第2代将軍足利義(よし)詮(あきら)公が総勢7万餘騎の兵を率いて半年間在陣し、「天下静謐」を願った祈願状なども残りますが、鎌倉時代には、後伏見天皇の中宮(左大臣西園寺公衡(きんひら)の娘、広義門院・寧子(ねいし/やすこ))
の御懐妊、量(かず)仁(ひと)親王(光厳天皇)の御生誕の祈願状なども残ります。
さて、この「芦刈からくり堂」の「からくり人形」は、三体の人形が登場致します、一体目は所蔵する『大覚寺縁起絵巻』に登場する、「山伏」が変身した「カラス天狗」が物語の案内を致します。大覚寺の山伏は、北摂の山で唯一大阪湾の長洲大物浦を望む事が出来る剣尾山山頂と、剣尾山から望むことが出来る山城の愛宕山山頂を使って、瀬戸内海の変事を京の都に伝える役目を担っていたようです。
次に登場する二体は、貧しい姿から立派な衣装に変身する「芦刈の男」と御所車から女の姿に変身する「芦刈の妻」です。
『芦刈』の物語は、故あって別れた難波浦の夫婦が、「大覚寺市庭」で再会し、読み交わした「和歌」の徳に依って、再び幸せになる物語で、この物語を三体の「からくり人形」で上演披露致します。
登場する「からくり人形」は江戸時代の技法と機構を忠実に守って作られた、九代玉屋庄兵衛師の制作による江戸時代伝統の「からくり人形」で、本来その動きには熟練した紐の操作が必要ですが、この度は尼崎の最先端の「モノづくり」による、人が紐を引く代わりに、コンピューター制御の空気圧によるエアーシリンダーの動きで作動致します。
大覚寺のからくり人形制作スケジュール
平成28年節分、「芦刈からくり堂」の建物と「カラス天狗」に変身する「山伏」の人形が完成
平成29年節分、「芦刈」説話に登場する夫婦二体の人形が完成
平成30年節分、紐を引くと、中世摂津長洲浦・能勢剣尾山・山城愛宕山・京の都を繋いだ、カラス天狗がおみくじを運ぶ「からくり御籤」が完成。
平成31年節分、「からくり御籤」に琵琶法師の守護神の大覚寺市庭の市神様の弁才天と大覚寺市庭を活動の拠点にし、室町幕府と関係を深めながら『平家物語』を完成させた琵琶法師の巨匠・覚一検校と平家物語を題材にして大物に所在した旧大覚寺とも関係の深いの能楽「船弁慶」を組み込んだ、「船弁慶からくり御籤」が完成。
江戸時代から伝わる技術と近代「ものづくり」のコラボレーション
「からくり人形」は九代玉屋庄兵衛師制作で、能面の制作技法による「頭(かしら)」、人形が変化する「仕掛け」、木製の歯車など、江戸時代から伝わる技術を忠実に守って作られた伝統の木製人形です。本来は「人」が「紐」などを操って動かすのですが、阪神工業地帯の中核都市尼崎の地元の「ものづくり」のノウハウを活かした、コンピューター制御による、エアーシリンダーの伸縮によって、「人」の代わりに「人形」を動かします。
現在制作中の「からくりみくじ」は江戸時代の伝統技法を忠実に守って制作し、駆動機構は、地元産業の現代最先端のシステムや「ものづくり」の技術に興味を持ってもらえる様、実際に自分で動かして、その「仕組み」が確認できるような仕様になるよう計画中です。
毎年節分に「芦刈からくり人形」を観覧いただけます。
大覚寺芦刈からくり堂縁起
さまざまな文学に尼崎は登場しますが、その中のひとつに能楽『芦刈』があります。
能楽『芦刈』は、「難波の芦」にちなみ、平安文学の歌物語『大和物語』から取材して世阿弥が制作した能楽です。
故(ゆえ)あって妻と別れた男が、大物之浦「大覚寺市庭」で再開し幸福になる物語です。
京都の祇園祭の山車には、この能楽『芦刈』を題材にした「芦刈山」が応仁の乱以前から巡行します。尚、「芦刈山」のご神体の背後の松の梢には三日月がかかりますが、大覚寺の開基とも云える、能勢剣尾山の「月峯寺」を想起させます。
京都祇園祭の「芦刈山」では「芦」(あし)は「悪し」(あし)と音が同じ事から、「悪し」を刈り取る神として、再開を寿ぐ「夫婦和合」の神として大切に守られています。
「君なくてあしかりけりと思ふにも いとど難波の浦は住み憂き」
(あなたがいなくなって、悪いことをした、それぞれで道を探そう、などと言わなければよかった。芦を刈って一人で暮らす生活はわびしく辛いことだよ)
これに対して、妻が返歌をします。
「あしからじよからんとてぞ別れにし なにか難波の浦は住み憂き」
(嫌いになって別れたんじゃありません。それぞれで道を探し、あなたと私が幸せになれるだろうと思ったからこそ、お別れしたのです。わびしく寂しいとおっしゃらないでください。私も寂しくなりますから。)
『大和物語』では、夫婦がその後どうなったか分かりませんと結びますが、世阿弥はこれを、歌のやりとりの徳によって、夫婦の心と心がもう一度元に戻り、幸福になる筋にしています。
また、物語の舞台になる大物之浦「大覚寺市庭」は『平家物語』の大成者「覚一(かくいち)検校(けんぎょう)」のゆかりの地であり、『平家物語』を題材にした、義経、弁慶一行が静御前と別れる能楽『船弁慶』の舞台でもあります。
*覚一検校(かくいちけんぎょう)足利幕府との関係を強めながら、琵琶法師の職能団体「当道座(とうどうざ)」を組織した琵琶法師の巨匠。
*検校(けんぎょう)盲目の僧の最上位の官名。
大覚寺のからくり人形について
人形が織りなす物語
シテ・・・日下左衛門
ツレ・・・左衛門の妻
ワキ・・・従者
ワキツレ・・・供人
アイ・・・難波の里人
『大和物語』から取材した世阿弥制作の能楽「芦刈」を題材にした三体の「からくり人形」で構成されています。
先ず一体目の人形は、物語の進行役(狂言回し)の人形です。
お囃子に合わせて建物の障子が自動で開き、「山伏」の姿の人が登場します。挨拶を済ませ、「カラス天狗」に変身し、此れから始まる物語の案内をします。
月峯山大覚寺の前身、長洲「灯炉堂」は、尼崎より北方30キロの能勢の剣尾山山頂にあった月峯寺を遥拝するために創建されました。剣尾山は北摂の山の中で、山頂から大阪湾が唯一見える山で、山伏の活動拠点でもあり、その山頂からは、東に20キロに京都の愛宕山が望めます、瀬戸内海で変事が有った時、尼崎の浜で山伏が焚く「柴燈護摩」の煙や炎による「狼煙(のろし)」に依って、剣尾山と愛宕山を経てその日のうちに京の都に伝える役目を担っていたといわれています。
大覚寺に伝わる「大覚寺縁起絵巻」には剣尾山の山頂を飛来する「カラス天狗」の姿が描かれており、その姿をモデルにして制作された、「面被り」という江戸時代から有る技法により「カラス天狗」に変身する「山伏」の人形です。
二番目に登場する人形は、貧しい芦刈の姿の男の人形です。
平安文学「大和物語」芦刈を取材した世阿弥作、能楽「芦刈」はその主人公の名前を「日下の左衛門」としています。
妻と再会するまでは、貧しい「芦刈」の姿ですが、妻と再会して立派な衣装に変身します。
最後に登場する三体目の人形は、「日下ノ左衛門」の妻です。
「摂津名所図会」の挿絵に在りますように、「御所車」で登場します。
車輪が畳まれ、屋根が畳まれ、御簾が畳まれて、体を起こしながら妻が現れます。
こうした「からくり」の技法も江戸時代にすでに確立していたものを、九代玉屋庄兵衛師が工夫発展させて完成しました。
夫婦が見つめ合い、再会を喜び、妻が手を振ると、夫が立派な衣装に変身して、妻は再び「御所車」に乗り込み、妻の後について夫も退場し、建物の障子が締まります。
あらすじ
摂津の国・日下の左衛門は故あって夫婦別れをせざるをえなかった。妻は都で貴人に乳母として 仕え生活も安定し、ある日従者を伴い里帰りに難波の浦へ戻り夫の行方を尋ねる。
そこへ 落ちぶれて芦売りとなった夫が現れ、妻の一行とは知らず面白く囃しながら芦を売り、昔仁徳 天皇の皇居があった御津の浜の由来を語り笠尽しの舞<笠之段>を見せる。やがて芦を手渡す 所で妻だと気付き、己の有様を恥じて身を隠す。
妻は自ら夫の心を解きほぐすべく和歌を詠み交わし 別離後の恋しさを語り合い、めでたく再会を果たす。男は装いも新たにして和歌の功徳を称え 祝儀の舞<男舞>を舞い、夫婦仲良く連れ立って都へ向かいます。
みどころ
和歌の徳よって夫婦がめでたく再縁を果たすのが主題。 零落した夫と妻の出会いが山場ですが、御津の浜の網引きと笠踊りを舞台芸に 取り入れています。シテの着物によって二場に分かれます、前半では物狂いの登場で<カケリ> <名所教え><笠之段>、後半では<男舞>と多くの見せ場で構成されています。
能楽「芦刈」の舞台では本物の「アシ」ではなく「シャガの葉」を細竹に挟んで「シテ」が使用しますが、それを模して人形の右手に持たせ、左手には大覚寺で節分の日に授与します「アシ」で出来た「破魔矢」を持ちます、今日の節分の「豆まき」の行事の起源と云われる、宮中の「鬼やらい」でも「アシ」の矢に「モモ」の弓で追儺が行われたそうです。
江戸時代の「摂津名所図会」の「芦刈」の物語を紹介した挿絵には「鎌」と「アシ」を持つ姿が描かれていますが、「鎌」の代わりに祇園祭で巡行する「芦刈山」の扇を持ち、機構の操作によって、扇が開閉し「アシ」を刈る姿を表します。左手には「アシ」の代わりに「鈴」を振ります。「鈴」は稲穂に見立てて収穫を寿いで振られますので、「アシ」の代わりに「鈴」を持たせました。