大覚寺年表
605年(推古十三年)
聖徳太子が百済の高僧・日羅上人に命じられて、瑞光に輝く長州の浦(現在の尼崎市東本町「大物」)に「灯炉堂」を建設されました。
大覚寺の創建は、この「灯炉堂」が起源と言われています。
785年(延暦四年)
都が奈良から京都に移る遷都の一環作業として神崎川と淀川が結ばれ、神崎川は「今淀川」と呼ばれ、都と瀬戸内海を結ぶ河口は重要な港町に発達しました。
こうした事から京都加茂社は海浜の新鮮魚介と献供の輸送に着目して長洲庄を開発し長洲御厨とし、大覚寺はこの長洲御厨地内にありました。
1275年(建治元年)
「灯炉堂」の地に「月峯山大覚寺」が建立されたのは、鎌倉時代中興琳海上人の時です。
琳海上人は東大寺戒壇院・円照上人の弟子で、源氏の氏神として朝廷はじめ鎌倉幕府以下の尊崇と信仰を集めていた「石清水八幡宮」の宮司代々の氏寺・神宮寺であった「石清水八幡大乗院」座主を辞し、後を叡尊・思圓上人に譲り、大覚寺統・後宇多天皇の御代の建治元年(一二七五)に、能勢の剣尾山山頂の「月峯寺」の遙拝所として建てられた「灯炉堂」の地に、「月峯山大覚寺」が建立され、その住持となられました。
このとき「月峯山大覚寺」の寺号と「葉菊」の寺紋が定められたと伝えています。
寺紋の形は、「二枚抱き葉菊紋」とも言われ、十六葉菊花紋の天皇家を二枚の菊の葉で包みお守りする形であると言われています。
1315年(正和四年)
鎌倉時代の大覚寺の伽藍は、正和四年(一三一五)の「長洲御厨内大覚寺絵図」によりますと、寺域は広大で朱塗りの金堂・講堂・三重塔・僧坊などが立ち並び、僧衆二十一名、番頭(自治組織の代表者)十五名、他に公方地なども備えた百済様式の大寺で、東の大門の前には湯座(温室)も備えた市庭が広がり南側には大覚寺別所がありました。
1360年(延文五年)
南北朝時代の大覚寺は、北朝の足利二代将軍義詮公が南朝の楠木氏討伐のため総勢七万余騎の大軍を率いて尼崎に下向され、半年間大覚寺に在陣されました。
大覚寺はこの頃より城郭としての性格が強くなり、大覚寺城と呼ばれました。
また南朝の楠木氏も尼崎に兵を進めたときには、大覚寺に禁制を与えて保護しています。こうしたことは、大覚寺が両朝から重視されるほどの実力を備えていた事がわかります。
1569年(永禄十二年)
室町幕府も最後の頃、永禄十二年(一五六九)二月二十八日、織田信長は三千人の将兵を別所に陣取らせ尼崎の住人に失銭(軍用金)を強要しました。
このとき住人が拒否したことから争乱となり、住人三十余人が殺され、このあたり一帯は焼き討ちにあい大覚寺も伽藍のほとんどを焼亡しました。
1617年(元和元年)
徳川幕府が成立した江戸時代初頭、大阪城の西の守りとして、築城の名手として名高い尼崎藩初代・戸田氏鉄候によって寺域に尼崎城が築城され、当初は大覚寺城と呼ばれました。
尼崎藩二代目・尼崎藩主・初代青山幸成候は徳川幕府老中として活躍され、江戸の青山家下屋敷は、江戸でも屈指の広大な敷地を幕府より与えられました。
尼崎青山家の家紋は、「無紋銭(裏銭紋)」の家紋とともに、大覚寺城に因み大覚寺の「葉菊紋(抱葉菊紋)」をお使いになったと伝えられています。
新城築城に伴い、大覚寺(真言宗兼律宗)も近在の他の寺々とともに現在の寺町に移され、尼崎城主代々の祈願所、「尼崎藩御祈祷所」として藩より禄を与えられました。
1665年(寛文五年)
「紀伊続風土記・高野山」にもその記述がある、真言密教の禅とも言われる「阿字観」の先駆者である増栄坊・阿字門・理観上人は、大覚寺に母と共に住まわれました。
現在の大覚寺山門の阿字観本尊の額は、理観上人自筆の、梵字の「阿字」が上げられており、その脇の「玉水の井戸」には寛文五年(一六六五)七月十八日の銘があり、理観上人ゆかりの井戸です。浜辺に近いこの地にあって名水でした。
1877年(明治十年)
明治新政府により廃藩となり、廃仏毀釈のなか明治十年(一八七七)正月、聖天堂から出火して、本堂は烏有に帰し、さらに、三十年にも魔火に襲われて、再び仏堂を焼失してしまいました。
1938年(昭和十三年)
一月十七日、当時全国でもあまり例がない、桃山様式の鉄筋コンクリート建築の本堂が武田伍一博士の助言を頂き再建されました。
1952年(昭和二十七年)
十二月十七日、渋谷五郎博士の設計で聖天堂が再建されました。
1967年(昭和四十二年)
四月に、所蔵文書の内、中世文書五十六点が兵庫県文化財に指定されました。
1975年(昭和五十年)
四月に、尼崎市田能遺跡発掘調査に於ける弥生人骨の一部を安置した「田能弥生人納骨供養塔」が建立されました。
1995年(平成七年)
一月十七日の阪神・淡路大震災で江戸時代からの「庫裏」や「山門」などが倒壊しました。
この地震により「弁天堂」内の「弁才天社」より慶長二十年(一六一五)六月吉日の棟札が発見されました。
1996年(平成八年)
一月二十二日「庫裏」の再建修理が終りました。
1999年(平成十一年)
六月二十九日、震災復興工事のため伐採した境内の楠木を材料に、覚一検校はじめ琵琶法師ゆかりの「閻魔十王像」を大仏師・松本明慶師に依頼し制作しました。
2001年(平成十三年)
十一月三日、「弁天堂」の修理が完了し、これを機に松本明慶師作の「宇賀八臂弁才天」と脇侍の「大黒天」「毘沙門天」「十六童子」を奉安しました。
修理を終えた「弁天堂」は平成十四年(二〇〇二)四月に市の文化財に指定されました。
2002年(平成十四年)
十一月二十四日、震災復興指定寄付金制度を利用して、本堂大屋根を建設以来65年ぶりに、チタンの屋根材で葺き替えました。
2005年(平成十七年)
開基一四〇〇年,開創七三〇年を記念し、松本明慶師制作に依頼し、縁起絵巻の記述どおりに聖徳太子の守り本尊である弥陀三尊と、日羅上人の守り本尊の釈迦像と剣尾山ゆかりの千手観音と霊剣を胎内におさめた、十一面千手観音と眷属の二十八部衆、風神、雷神を制作しました。
また、記念事業として「大覚寺身振り狂言奉納舞台」を建設しました。
舞台の鏡板制作は五世・長谷川貞信師に依頼し、大覚寺の前身である「灯炉堂」の当時が偲ばれる、松原と潮騒を見事に再現頂きました。