理観上人
阿字観山門額と玉水之井戸・理智門
増栄房 理観 空観
増栄坊、理観上人:
寛永12年(1635)~元禄6年(1693)1月25日没
年12才で麻耶山にて出家得度、15才高野山大楽院信龍の室に入り、南院良意に随って安流の極意伝え、伊勢に赴き亮典の門を叩いて神道の奥旨を究め、再び高野山に還って悉曇声明を学ばれました。
理観上人生誕の年寛永12年は、尼崎藩に青山幸成(よしなり)候国替えの年にあたります。(尼崎藩では「幸」の字を代々「よし」と読ませます。)
当時尼崎藩領下であった。摂津国菟原郡畑原村–神戸市灘区畑原–(王子公園北、麻耶ケーブル駅辺)安田氏に生まれる。没年は記録によると尼崎城内にて牢死とあり、入牢の原因はキリシタン・バテレンの邪法を使うとの嫌疑により、将軍家綱の命によって監置されたと伝えられています。
当時は寛永14年(1637)の島原の乱や慶安4年(1651)の由井正雪(ゆい しょうせつ)の事件:三代将軍家光のころ関ヶ原、大阪の役以来、大名の取りつぶしなどで浪人があふれました、48歳で死去した家光の後を11歳の家綱が継ぐことになり、それに乗じて幕府転覆を謀った事件。などもあり、人心を収攬し社会的に声望ある者を極度に警戒した時代でした。
寛文4年理観上人31歳の時、江戸に於いて市中で病気に苦しんでいる人に、井戸水を五鈷加持して飲ませ病気を癒し(寛文6年7月18日銘の有る大覚寺の玉水之井にも同じ伝承が伝わっています。)、また乳が出ず難儀する母親と乳の余っている母親を並ばせ乳を移して乳が出るようにした事などが評判になり、高風を慕って崇敬する人が少なくなかったようです。
寺社奉行井上河内守利正(としまさ)候はご自分の目で確かめるべく、理観上人を詮議することになりましたが、理観上人は器に盛られた水を、手も触れずたちどころに半分に減らし、またしばらくして本に戻し「水輪無碍の徳」を見せられましたので、寺社奉行は「愚眼真人を知らず、過って聖者を苦しむ。幸いに慈赦を垂れたまえ。」と信者の契りを結んで理観上人を崇信されました。
ある日修法を終えて定から出た理観上人は江戸にいながらにして、「今大阪城が火災に見舞われている。」と河内守に告げ、果たしてその通りでありました。その様なことが将軍家綱の耳に入り、霊力無双を敬遠され、生まれ故郷の尼崎藩青山幸成(よしなり)候に監護されることになったようです。
その頃、大覚寺は尼崎藩御祈祷所でありましたので、建前上、囚人である理観上人は、住職の身分ではなく弟子の身分であったと伝えられています。盲目の母親と一緒に大覚寺に住まいし、機を織る母親の世話をし、掃除や食事も人の手を借りず孝養を尽くされたと伝わります。理観上人の死後、縁者が懇願して故郷畑原村に葬り、高野山奥の院一の橋の青山家の墓所の近くにも墓碑があると伝えます。
理観上人は清水の湧き口を見つけ出すのが上手で、ここを掘れと言ったところを掘ると必ず良水が得られたと云い、今も尼崎や灘にその井戸が残り、大覚寺の玉水之井(寛文6年7月18日銘)もそのひとつです。
大覚寺の山号額には理観上人直筆の阿字観本尊があがり、その右手に理観上人ゆかりの「玉水之井」が残ります。
他にも、密教の瞑想法である「阿字観」の板本尊や、直筆の供養法(六器や鈴などの密教法具を用いた行法)付きの阿字観次第や、月輪観次第などが残ります。
大覚寺は江戸時代、尼崎藩御祈祷所として藩から録が与えられましたので、登城用の駕籠が今も残っています。
参考
__1.木村時員(きむら ときかず)三暁庵随筆、上巻
__2.太田南畝(おおた なんぼ)補三十幅(ほみそのや)
__3.「紀伊続風土記」