戦国武将と大覚寺
北朝・足利二代将軍・足利義詮公と大覚寺
南北朝時代・延文三年(1358)尊氏公死去に伴い、嫡男・足利義詮公が征夷大将軍に任じられ、足利二代将軍となられます。そしてその示威もあり、南朝の楠木氏討伐のため総勢七万余騎の大軍を率いて尼崎に下向され、半年間大覚寺を本陣御座所とされました。この頃より大覚寺は城郭としての性格が強くなり、大覚寺城と呼ばれました。
また寺域は港湾都市としての発展が進み、「大物(だいもつ)」の地名ともなります、「大物(おおもの)」と呼ばれた寺社建設用の巨大な材木の集積地として有名になり、石清水八幡宮の造営などにも参加した「尼崎番匠(ばんしょう)」と呼ばれた大工集団もあったようです。
また淀川水系を使った物流の拠点としての面影が残る京都伏見には、今も尼ヶ崎町等の地名が残り、淀川河口の水運の拠点のひとつ尼崎との関係を想起させます。
北山殿・足利義満公と大覚寺
応永13年(1406)北山殿・足利義満公が、着岸した「唐船」を見ようと来られた記録なども残り大覚寺市庭の繁栄が伺えます。
南朝・楠木正儀公と大覚寺
南朝の楠木氏も尼崎に兵を進めたときには、大覚寺に禁制を与えて保護しています。こうしたことは、大覚寺が南朝・北朝の両朝から重視される程の実力を備えていた事が分かります。
大覚寺文書の中に、楠木正儀公(まさのり:南朝の有力武将・楠木正成の三男。楠木正行、正時の弟。)の禁制の書状を伝えています。
細川氏一族と大覚寺
燈炉堂(大覚寺)・剣尾山・愛宕山・京都、を山伏の焚く柴燈大護摩の(のろし:狼煙、烽火)で繋ぐ通信網を築きあげたのは、細川京兆家・細川政元公ではなかったかとの指摘が有ります。
細川政元公は畿内の摂津・丹波の守護であり、四国の讃岐・土佐の守護でもあったため、四国・瀬戸内で異変が起こった時、あるいは京都で変事が有った時、急を知らせる為の高速情報通信網が存在したと言われています。
政元公は「常はまほう(魔法)をおこなひて、近国他国をうごかし、又或時は津々裏々の御舟遊びばかり也。」(「細川両家記」)と言われるように、山伏信仰・修験道を良くされ、女性を近づけず生涯独身を通されたため実子がなく、澄之(すみゆき)公・澄元(すみもと)公・高国(たかくに)公を養子にされました。
しかし、家臣たちがそれぞれの派閥にわかれて勢力を競うようになり、しばしば尼崎が戦いの舞台となりました。
軍勢が尼崎に上陸すると、一両日中に京都に到達することが出来たため、京都を支配する勢力にとっては、ここが最前線となり、ここでの戦いが政権を左右したと言われています。
大覚寺には、細川清氏公(細川宗家・足利義詮執事)の数通の書状(金光明最勝王経の読誦祈願依頼)や細川満元公(細川京兆家・室町幕府管領 摂津・丹波・讃岐・土佐の守護)の書状(鷺島庄(大阪市福島区)下司職について仰せ下し状)や細川頼元公(室町幕府侍所頭人 管領 摂津・丹波・土佐・讃岐・安芸の守護。正室は赤松則祐の娘。子に満元、満国。初名は頼基。頼元以後、細川京兆家は三管領の一つとして室町幕府の管領を務める家柄となる。)の書状などを伝えています。
吉良光義公と大覚寺
鎌倉時代後期、鎌倉幕府は北条得宗家による執政体制にあり、元寇(げんこう:元のフビライの軍が日本襲来。)以来の政局不安などにより、幕府は次第に武士層からの支持を失っていきました。吉良満義公は元弘の乱(げんこうのらん:元弘元年(1331)に起きた、後醍醐天皇を中心とした勢力による鎌倉幕府討幕運動。)で倒幕の兵を挙げた足利尊氏公に従い、京都の六波羅探題攻撃に参加しています。倒幕後に建武の新政が開始されると、足利直義公(尊氏の弟)に従い関東に下向し、建武3年/延元元年(1336年)の南北朝の分裂までの間、尊氏公・直義公に従い各地を転戦しています。康永3年/興国5年(1344年)幕府引付方(ひきつけかた:幕府の裁判機関)の一番頭人に就任し、直義公の政務を補助しました。
観応の擾乱(かんのうのじょうらん:室町幕府・足利政権の内紛。)では、終始直義側に立ち、尊氏公から「吉良荘の凶徒」と呼ばれましたが、文和元年/正平7年(1352年)直義公が没した後も容易に尊氏公には降らず、数年にわたり南朝に属して抵抗を続けました。その後、嫡男・満貞と袂を分かち北朝に帰順しています。文和4年/正平10年(1355年)に南朝軍が京都を占領した際には、近江に下向していた北朝・後光厳天皇の警備を任されています。
延文元年/正平11年(1356年)9月23日没。法名は寂光院殿。
赤松氏一族と大覚寺
赤松範資公の死後、後を継いで摂津守護になられた、範資公嫡男の赤松光範(みつのり)公の書状が大覚寺には伝わります。
また、赤松範資公歿後、赤松氏惣領(そうりょう)を継がれたのは、赤松円心公の三男・赤松則祐(そくゆう/のりすけ)公で、妻は佐々木導誉公の娘です。佐々木導誉公は摂津守護の赤松光範公の後を継いで摂津守護となられ、その後、娘婿の赤松則祐公に摂津守護を譲られています。
また、赤松則祐公は室町幕府の禅律方頭人にも成っておられます。
(禅律方:ぜんりつがた)建武三年(1336)足利尊氏公の元に禅宗及び律宗などを統括した禅律方が設置され、のちに室町幕府の正式な役職機関となり、僧侶の登録・住持の任免などの人事を統括し、後には僧録司(そうろくし)とよばれました。)。
香道の大成者・佐々木導誉公と大覚寺
延文五年(1360)、征夷大将軍就任に伴う示威の為もあったと言われる、足利義詮公の半年間に渡る大覚寺在陣にからんで、日本三芸道の一つ、香道の大成者である、佐々木導誉公が赤松光範公にかわって、摂津守護識の任命を受けられています。
現在、大覚寺では佐々木導誉公を流祖とする、皇室香華院・京都泉涌寺長老が家元をなさる、香道泉山御流の教場となっております。
毎月「お香の会」が開かれ、導誉公のご命日には流祖の追善と泉山御流一門の隆盛を祈念して献香式が行われます。
三好氏一族と大覚寺
三好氏は阿波国の有力武士で代々細川氏に仕えてきました。細川澄元公の子、細川晴元公の家臣・三好長慶公が台頭し、摂津国衆を味方につけて、第12代将軍足利義晴公や細川晴元公を京都から追放し政権の座につきます。三好氏は阿波からの上陸地として、また兵庫・淡路・堺などに兵力を移動させる拠点として尼崎をしばしば利用し、堺とならんで尼崎を大阪湾支配の拠点としたようです。大覚寺には三好 義賢(みよし よしかた:三好長慶の弟。別名、実休(じっきゅう)。)の禁制が残されています。
篠原長房公と大覚寺
篠原 長房公は阿波の戦国大名三好氏の家臣で阿波国麻植郡上桜城主(徳島県川島町)です。橘氏を称し、長房公の祖父・宗半公の代に近江国野洲郡篠原郷より下って三好氏に仕えたと言われています。三好氏の分国法(ぶんこくほう:戦国大名が領国支配のために制定した法令。)である新加制式(しんかせいしき:戦国時代、四国・畿内に大領国を築いた三好氏の家法。)の編纂にあたる一方で、阿波・讃岐両国の軍勢を率いてしばしば畿内へ出兵しています。
永禄9年(1566年)6月には第14代足利義栄公を擁立し三好長治公・細川真之公(細川持隆の子、長治の異父兄)を奉じて四国勢を動員して畿内へ進出するなど、三好一門の有力者三好三人衆(みよしさんにんしゅう:三好長慶の部下であった三好長逸・岩成友通・三好政康の三人をいう。)と協調路線をとり、松永久秀公と敵対し、松永方の瓦林三河守より摂津越水城を奪い、ここを拠点として大和ほか各地に転戦し、東大寺大仏殿の戦いでは、永禄10年(1567年)4月18日から10月11日のおよそ半年間にわたり松永久秀公、三好義継公に対して三好三人衆、筒井順慶公、池田勝正公らと大和東大寺周辺で市街戦を繰り広げ、永禄11年10月まで畿内に駐屯しました。
この時期の長房公は、『フロイス日本史』に「この頃、彼ら(三好三人衆)以上に勢力を有し、彼らを管轄せんばかりであったのは篠原殿で、彼は阿波国において絶対的(権力を有する)執政であった」と記されるほどでした。阿波・讃岐両国をよくまとめて三好長慶公の死後退勢に向かう三好氏を支えたと言われています。
織田信長公と大覚寺
室町時代も最後の頃、永録12年(1569)2月28日織田信長は三千人の将兵を大覚寺別所(べっしょ:大仏上人・重源〔ちょうげん〕上人が東大寺大仏殿再建のため各地に設けた事務所を別所と称したことから、東大寺の尼崎木屋所をも別所と呼んだことに由来するという説もある。)に陣取らせ、大覚寺市庭の住人に矢銭(軍用金)を強要しました。
このとき住人が拒否したことから争乱となり、住人三十余人が殺され、市庭一帯は焼き討ちに会い、この時大覚寺も伽藍のほとんどを焼亡しました。
豊臣秀吉公と大覚寺
豊臣秀吉公は信長公が本能寺の変で明智光秀公に討たれると、「中国大返し」により京へ取って返し、大物まで来た時、光秀勢に見つかり、味噌擂り坊主に化けて難を逃れたという伝承があります、ついには山崎の戦いで光秀軍を破り、織田家内部の勢力争いでも他の家臣はおろか主家をも制して天下人の地位を得たと言われています。
その豊臣秀吉公が行った土地調査を太閤検地と言います。
大覚寺には検地によって定められた年貢率をめぐる領主と農民に対する朱印状が残ります。
年貢率に対して、当時の農民と領主の間でさまざまな駆け引きがされていたことが書状から伺えます。