薬師堂
後伏見天皇中宮
西園寺寧子(広義門院)御産祈願
量仁親王(光厳天皇)生誕
七仏薬師法と放生会
奈良時代、天皇家や上流貴族の病気の際は薬師に祈願するのが通例でした。
平安時代に入り密教修法が盛んになると,《七仏本願功徳経》による七仏薬師法が発達しました。独自性を主張する風潮もあり、真言宗(東密)では顕教の仏として、天台宗に比べてあまり重きに置かれていませんが、天台宗(台密)では伝統的に天皇家と結びつきが強かった為か、薬師如来が東方浄瑠璃世界の教主であることから、東の国の王たる天皇と結び付けられたりして、除病安産など息災増益の秘法として特に重んじられました。
七仏薬師は,平安初期9世紀の円仁がはじめたと伝えられていますが,平安時代10世紀の中頃、良源上人(諡号は慈恵大師(じえだいし)一般には通称の元三大師(がんさんだいし)の名で知られます。)が、摂関家の安産祈願を修して以来,有名になったと言われています。
元三大師は第18代の天台座主(てんだいざす、天台宗の最高の位)であり、実在の人物ですが、中世以来、「角(つの)大師」「豆大師」「厄除け大師」など、様々な別称があり、広い信仰を集めています。また、全国あちこちの社寺に見られる「おみくじ」の創始者は元三大師だと言われています。
鎌倉時代、東北院を中興された大覚寺の琳海上人は、後伏見天皇の中宮(西園寺公衡(きんひら)の娘・広義門院・寧子)の御産祈願に際し、この七仏薬師法と共に放生会を行い(捕獲した魚や鳥獣を野に放し、殺生を戒める宗教儀式で、この安産祈願の法要のため尼崎の浜で魚介を買った記録が残ります)、目出度く量仁(かずひと)親王(光厳天皇)が誕生され、大がかりな祝典があげられました。
また、琳海上人が中興された洛中・東北院は、世阿弥の能楽「東北」の舞台で、和泉式部の「軒端の梅」でも有名ですが、御所の東北に有ったことによる寺名で、元三大師の廬山寺辺りで有ったことも興味深いです。
「密教(東密)には野沢十ニ流と多くの流派がありますが、諸尊法の伝授に於いて、その多くの流派が阿弥陀より始めますが、唐招提寺松橋流にあっては薬師より始めます、口訣には薬師より始める理由を縷々述べ、薬師に重きを置きます。」
参考:
__ 管見記(かんけんき):西園寺実兼(さねかね)の長男・公衡(きんひら)の日記。
__ 広義門院西園寺寧子(ねいし/やすこ)は公衡の娘。
広義門院西園寺寧子
後伏見上皇の女御であり、光厳天皇及び光明天皇の実母です。
治天の君(国王)の座に就き、天皇家の家督者として北朝と西園寺家を守り抜いた女性と言われています。
女性で治天の君となったのも、皇室に出自せず治天の君となったのも、日本史上、広義門院西園寺寧子が唯一です。